雅子さま

残響 (中公文庫)
テレビで「雅子さま」のニュースを見るたびに保坂和志『残響』の次の部分を思い出す。

 婚約発表の二日後に渡辺彩子が、雅子さんが近くの歩き馴れた商店街を「こうやって歩くのも今年が最後」という思いをかみしめながら歩いた話をして、それを聞いて以来早夜子はなんだか淋しくてしょうがないようなとき、一人で街を歩いていると雅子さんみたいに感じる。

 それが年が明けたら婚約を発表すると知らされ、うれしいとか辛いとかそういう感情以上に、自分はもういままでのようにして一人で街を歩くことができなくなる、本当にもう二度とできなくなるのだなと思いながら雅子さんは街を歩いた。 
 十二月の街はどこもクリスマス・ソングが流れていて、子どもの頃から数えきれない回数を歩いた近所の目黒の商店街にもクリスマス・ソングが流れている。一つ一つ、店の並びもそこにいる人もすべて記憶に刻み込まれた商店街を雅子さんは、「あと何回この道をこうして歩くことができるのだろう」「来年からはもう、クリスマス・ソングの流れる街を一人で歩くことはない」「ここだけでなくてどこも、クリスマス・ソングの流れているところを一人で歩くことは、もうない」「目についたドレスやコートがあったら店に入ってそれを手に取ってみることも、もうない」「喫茶店に一人で入ってコーヒーを飲むことも、もうない」「人の流れに合わせて歩いたり、それより遅れて歩いたり、ふと立ち止まって、これからどっちに行こうかと迷うことも、もうできない」と、そんなことをいっぱいいっぱい思いながら残された最後の何日間かを歩いた……。

べつに「雅子さま」にも皇室にも関心はないのですが、この1996年に発表された文章を読む前と後とでは「雅子さま」のニュースから受ける印象が違ってくる。逆に言うと、こうして最後に街を歩いてから、今に至るまでの「雅子さま」の歴史を、ニュースを通じてとはいえ知っていることによって、『残響』のこの部分の印象もまた違ったものになる、気がします。